記録と語り 記録に残ったことと、後から語られた話を分けて見る

第四章/1573〜1577年

はげねずみの城

この章の問い ── 城主になった男と、その家族は何に悩んでいたのか?

本編(約12分)/ナレーションと台詞には合成音声、人物・背景の絵は画像生成 AI によるイメージです。

一3行のあらすじ

二記録と語りの表

この章で出てくる話を、同じ時代に書かれた記録と、後の時代に語られた話に分けました。2026年10月25日時点で当チャンネルが調べたかぎりの整理です。

話 記録(同じ時代の史料) 語り(後の時代の本) わかっていないこと
信長が秀吉を「はげねずみ」と呼んだ
史実
俗説チェック
信長がねねに宛てた書状が、いまも残っています(個人蔵・重要美術品)。「天下布武」の印があり、差出は「のぶ」、宛名は「藤きちらう」。その中に「いづかたをあひたづね候とも、それさまほどのは、又二たび、かのはげねずみ、あひもとめがたき」── どこを探しても、あなたほどの人は、あの「はげねずみ」には二度と見つからない ── とあります。 信長が秀吉を「猿」と呼んだとする話は後の本に多く出てきますが(第一章)、信長の書状で確かめられる呼び名は「はげねずみ」のほうです。天正5年3月15日付の黒印状に「猿帰候て」とある例はありますが、これが秀吉を指すのか密偵を指すのかで見方が分かれます。 書状に年は書かれていません。信長の直筆か、右筆(書記)の筆かでも説が分かれます。末尾を「羽柴に見せよ」と読むことが多いものの、読み方は一定していません。
ねねが秀吉の浮気を信長に訴えた
諸説あり
手紙から読み取れるのは、ねねが(安土とされる地へ)訪ねて土産を贈ったこと、藤吉郎が「れんゝゝふそく」(ずっと不足だ)と言っていると信長が聞いたこと、信長がそれを「ごん五だうだん、くせ事」(言語道断、けしからぬこと)としたこと、そしてねねに「りんき」(嫉妬)に立ち入るなと言ったことです。 ねねが夫の女性関係を訴えた、という読み方が広く知られています。 ねねが何を訴えたのか、藤吉郎の「不足」が何だったのか、相手がいたとして誰なのかは、手紙に書かれていません。ねねのとりなしで秀吉が許された、という話も出典を確認できませんでした。
北陸の陣から無断で引き揚げた理由
諸説あり
俗説チェック
『信長公記』に「羽柴筑前御届をも不申上歸陣仕候段曲事之由被成御逆鱗迷惑申され候」── 羽柴筑前が届けも出さずに陣を引き払って帰ったことを、けしからぬことだと信長がひどく怒り、筑前は困り果てた ── とあります。理由は書かれていません。 柴田勝家と張り合って帰った、とするのは江戸前期の『織田軍記』(=『総見記』、1685年ごろ)です。長浜で酒宴を開いたという話は、出典を確認できませんでした。 処罰の記事はありません。同じ年の10月10日には信貴山城攻めに「羽柴」の名があり、10月23日には「羽柴筑前守秀吉 播州に至而出陣」と、播磨へ向かっています。
兄は「筑前守」、弟は「羽柴」へ
通説
文書の名乗りは「木下藤吉郎 → 1573年7月から羽柴藤吉郎 → 1575年7月から羽柴筑前守」とされます(名古屋市博物館)。弟は1575年11月11日付の古橋村宛書状に「羽小一郎」と署名しています(年が文書に書かれている)。 1575年7月3日に光秀らと同時に筑前守に任官した、とする説もありますが、『信長公記』の同じ日の記事に秀吉の名はありません。 『信長公記』は、兄が「羽柴筑前守」になったあとも、弟を「木下小一郎」と書き続けます(1574年の長島、1577年・1578年の竹田城、1580年の但馬)。弟本人は1575年には羽柴を名乗っているのに、牛一の記録では最後まで「木下」のままです。
今浜を「長浜」に改めた
通説
小谷落城ののち浅井の旧領を任され、今浜に城を移したとされます。町の年貢を免じたとも伝わります。 「長浜」の名は信長の一字をもらったもの、と「一説には」の形で説明されます。小谷の城下の町や寺を移したとも。母のなかの進言で年貢の免除を続けた、と伝える書状の写しも残ります。 築城・入城の年、「長浜」への改名の年は資料によって違います。なお、いまの長浜城の天守は1983年(昭和58)に建てられた模擬天守で、当時の姿ではありません。
長浜で生まれた男の子(石松丸)
諸説あり
長浜に、秀吉の最初の男の子のものとされる墓が残っています(妙法寺の石造笠塔婆)。2002〜04年に学術調査が行われました。 母は南殿と伝わります。長浜曳山まつりは、男の子の誕生を喜んだ秀吉が町の人々に砂金を振る舞い、それをもとに曳山がつくられたのが始まり、といわれています(長浜曳山文化協会の説明も「〜といわれています」の形)。 実在はほぼ認められていますが、実子かどうか、母が誰かで説が分かれます。亡くなった日も、天正4年10月14日とする説と、墓石の銘を天正6年11月6日とする紹介があります。
この時期の小一郎
諸説あり
1574年、長島攻めの先陣に「木下小一郎」の名が見えます。篠橋から出た一揆勢に浅井新八と二人で向かいました。兄の名は、この戦いの記録にはありません。 兄が越前の押さえに残ったためとされます。弟が長浜の城代をつとめた、とする研究もあります(黒田基樹氏)。 1577年8月、兄が北陸から引き揚げたとき、弟がどこにいたかを示す記録はありません。

三この章の年表

月は旧暦。年齢は満年齢で書いています。

  1. 1573年(元亀4)7月 文書の名乗りが「羽柴藤吉郎」に。秀吉は満36歳通説
  2. 1573年8〜9月 小谷落城。浅井の旧領を任される史実
  3. 1573〜74年 今浜に城を移す通説
  4. 1574年(天正2) ねねが母なかとともに長浜へ移ったとされる通説
  5. 1574年6月23日 信長、長島へ出陣。先陣に「木下小一郎」。兄の名はない史実
  6. 1574年10月 秀吉、母なかの侍女「こほ」宛の書状(写し)。町の年貢・諸役の免除を、なかの進言で続ける通説
  7. 1574年(天正2) 曳山まつりの始まりを、この年の男子誕生とする言い伝え
  8. 1575年(天正3)以降 今浜を「長浜」に改める通説
  9. 1575年7月3日 信長、家老衆に官途・姓を与える(惟任日向守・惟住など)。秀吉の名はない史実
  10. 1575年7月 文書の名乗りが「羽柴筑前守」に通説
  11. 1575年11月11日 「羽小一郎」と署名した古橋村宛の書状(年が書かれている)。秀長は満34〜35歳史実
  12. 1576年(天正4)正月〜 安土城の築城。羽柴筑前らが大石を運ぶ記事がある史実
  13. 1576年以降(年不明) 信長のねね宛書状(「はげねずみ」)諸説あり
  14. 1576年10月14日(とされる) 石松丸(秀勝)とされる子が亡くなる諸説あり
  15. 1577年(天正5)3月15日 信長黒印状「猿帰候て」(秀吉を指すか密偵か、見方が分かれる)諸説あり
  16. 1577年8月8日 柴田勝家を大将に北国へ出陣。秀吉も加わる。秀吉は満40歳史実
  17. 1577年8月(日付なし) 秀吉、届けなしに帰陣。信長が激怒史実
  18. 1577年10月10日 信貴山城攻めに「羽柴」の名史実
  19. 1577年10月23日 「羽柴筑前守秀吉 播州に至而出陣」。西には毛利が控えていた史実
  20. 1577年10月23日以降 但馬・竹田城に「木下小一郎」を城代に史実
  21. 1577〜78年 於次秀勝(信長の子)を養子に(推定)通説
  22. 1941年 信長のねね宛書状の写真が展覧会図録に載る。右筆の筆とする桑田忠親の論文
  23. 1983年(昭和58) 長浜城の模擬天守が建つ史実

四この章の登場人物

五参考文献

六この章のショート動画