第三章/1570〜1573年
金ヶ崎の殿(しんがり)
この章の問い ── 足軽出身の男は、なぜ最も危険な役目を引き受けたのか?
本編(約12分)/ナレーションと台詞には合成音声、人物・背景の絵は画像生成 AI によるイメージです。
一3行のあらすじ
- 1570年4月、越前・金ヶ崎。急いで引き返す織田の軍勢の中で、城に残されたのは木下藤吉郎でした。
- 秀吉の出世物語でよく知られた「金ヶ崎の殿(しんがり)」の場面を、『信長公記』、退却の数日後の手紙、江戸時代の本と、記録ごとに並べてみます。
- 後半は、姉川の戦いと横山城、そして小谷城の落城へ。藤吉郎の文書に「羽柴」の名字が現れるころ、弟・小一郎(のちの秀長)の名が記された、1573年のものとされる一通の文書も見ていきます。
二記録と語りの表
この章で出てくる話を、同じ時代に書かれた記録と、後の時代に語られた話に分けました。2026年10月25日時点で当チャンネルが調べたかぎりの整理です。
| 話 | 記録(同じ時代の史料) | 語り(後の時代の本) | わかっていないこと |
|---|---|---|---|
| 金ヶ崎で、藤吉郎がひとりで殿を志願した 俗説・創作 俗説チェック |
『信長公記』は「金ケ崎之城には木下藤吉郎残しをかせられ」と書く。「残しをかせられ」は「信長が残し置きなさった」という尊敬の言い方で、命じられた側である。退却の数日後とされる一色藤長の書状には「木藤・明十・池筑その外」と、明智光秀・池田勝正らの名も並ぶ。 | 自ら名乗り出たとするのは江戸初期の『当代記』から。徳川方の『寛永諸家系図伝』『徳川実紀』には家康の活躍が加わる。 | 同じ時代の記録にも手紙にも「殿(しんがり)」の語はない。どちらも「残し置かれた」と書くだけで、誰が中心だったかは研究者の間でも見方が分かれる。 |
| お市が小豆袋で危機を知らせた 俗説・創作 俗説チェック |
同じ時代の史料には見当たらない。 | 江戸時代の朝倉側の書物『朝倉家記』に出てくる話とされる。 | 後の創作とみられている(神田裕理氏ほか)。 |
| 姉川の戦いの主役 諸説あり |
『信長公記』は1570年6月28日、卯の刻(午前6時ごろ)に始まり、西の三田村口に家康、東の野村に信長の馬廻と美濃三人衆が向かったとする。人数は朝倉「八千計」、浅井「五千計」、合わせて「一万三千」。 | 同じ合戦が、書き手によって別の人の戦いになる。『三河物語』は浅井の名を出さず「今日之合戦は、家康之御手がら」と書く。『豊鑑』は秀吉が先陣を望み、竹中・牧村・丸毛を連れて先駆けしたと書く。『絵本太閤記』には「木下小市郎」(秀長)が磯野の軍を攻める場面がある。 | 「姉川の戦い」という呼び名はもともと徳川方のもので、織田・浅井方は「野村合戦」、朝倉方は「三田村合戦」と呼んだとされる。兵数・死者数・奇襲だったかにも諸説がある。 |
| 小谷城で、藤吉郎が父子を分断した 史実 |
『信長公記』に、天正元年(1573)8月27日夜、「羽柴筑前守京極つぶらへ取上」「浅井下野同備前父子之間を取切」とある。久政(父)と長政(子)の間を断ち、まず久政の曲輪を乗っ取った。久政は腹を切り、翌日、信長も京極丸へ上って長政らを自害させた。 | 『絵本太閤記』では、この父子の分断が弟の小一郎と竹中半兵衛の手柄として書かれる。『信長公記』で兄の働きとされたことが、江戸の読み物では弟に移る。 | 長政が自害した日は8月28日説(『信長公記』『豊鑑』)と9月1日説(8月29日付の感状による)がある。 |
| 秀吉がお市と三人の娘を救い出した 俗説・創作 俗説チェック |
『信長公記』の小谷落城の項に、お市と娘たちの記述はない。 | お市と三人の娘が城を出て織田方に引き取られたことは辞典に載るが、経緯は確かな記録にない。秀吉が救い出したとする説は、当チャンネルが調べたかぎり出典を確認できなかった。 | 濱田浩一郎氏は、『浅井三代記』(史料的価値は低いとされる)に藤掛永勝の名があることを紹介したうえで、「真にお市らを救ったのは長政」と見る。 |
| 万福丸の処刑に秀吉が関わった 俗説・創作 |
『信長公記』に、長政の「十歳之嫡男」を探し出し、関ヶ原で磔にかけた、という一文がある。秀吉の名はない。 | 秀吉が関わったとするのは『浅井三代記』による。 | 処刑の日付は確認できていない。 |
| 「羽柴」を名乗りはじめた時期 通説 |
『信長公記』で「羽柴藤吉郎」が最初に出るのは元亀3年(1572)11月3日の記事。署名のある文書では、元亀4年(1573)7月20日付の大山崎惣中宛が最初とされる。 | 『豊鑑』は由来を「丹羽の羽に柴田の柴をそへ」と書く。改姓の時期は辞典でも天正元年7月・同8月・天正2年と分かれる。 | この夏、兄は「羽柴」を使い始めていたが、弟は「木下小一郎」のままだった。弟が「羽柴小一郎長秀」として現れるのは天正3年(1575)11月11日とされる。 |
| この時期の小一郎 諸説あり |
金ヶ崎・姉川・横山城・小谷攻めの時期に、小一郎の動きを示す同じ時代の史料は見つかっていない。ただし天正元年(1573)8月16日付とされる、近江・黒田郷の惣百姓中に宛てた「木下小一郎長秀」の文書がある。村へ戻ることを命じ、兵の乱暴狼藉を禁ずる内容。 | 『絵本太閤記』は姉川に「木下小市郎」を出し、小谷攻めでは半兵衛とともに父子の連絡を断ったと書く。 | 長浜市の解説も、姉川について「史料からは確認できませんが、秀長もこの木下隊に加わり参戦していたかもしれない」とする。黒田郷宛文書の年も推定で、長浜城歴史博物館は「(天正元年[1573])」と表記している。 |
三「金ヶ崎の殿」は、誰の話として書かれてきたか
同じ撤退が、書き手によって別の人の手柄になります。そして、同じ時代の記録にも手紙にも「殿(しんがり)」という語はありません。どちらも「残し置かれた」と書くだけです。
| いつ | 書いたもの | 何が書かれているか |
|---|---|---|
| 1570年の出来事 | 太田牛一『信長公記』 史実 |
浅井の離反の知らせを信長は最初「虚説」と思ったが、方々から事実だと届き、「是非に及ばず」として「金ケ崎之城には木下藤吉郎残しをかせられ」、4月晦日に朽木越えで京へ戻った。この撤退の場面に、ほかの武将の名はない。 |
| 5月4日付(年は推定) | 一色藤長の書状(『武家雲箋』所収) 諸説あり |
退却の数日後に書かれたとされる手紙。金ヶ崎の城に 「木藤・明十・池筑その外」(木下藤吉郎・明智十兵衛・池田筑後守ほか)が残し置かれた、と書く。残ったのは藤吉郎だけではない。写しで伝わり、伝聞の可能性もある。 |
| 1622〜26年ごろ | 大久保忠教『三河物語』 | 徳川方の記録。「鐘ヶ崎之のきくち」として、信長が家康を後に残し、夜が明けて「木下藤吉、御案内者を申て」逃がした、と書く。家康を中心にした話になっている。 |
| 1625年序 | 小瀬甫庵『太閤記』 | 金ヶ崎の話そのものがない。1569年ごろから1581年へ飛び、1570年代をほとんど書かない。 |
| 1631年ごろ | 竹中重門『豊鑑』 | 金ヶ崎の記述はない。姉川の前に、秀吉が自ら先陣を望んだという話を書く。 |
| 江戸初期(成立年不明) | 『当代記』 俗説・創作 |
秀吉が自ら残ると申し出た、と書くのはこのあたりから(渡邊大門氏の紹介)。『信長公記』にこの記述はない。 |
| 江戸時代 | 『寛永諸家系図伝』『徳川実紀』など 俗説・創作 |
徳川方の書物に、家康が殿で活躍する話が加わる。同じ時代の史料に家康の名はない。 |
四この章の年表
月は旧暦。年齢は満年齢で書いています。
- 1570年(永禄13)4月20日 信長、京から越前へ出陣。藤吉郎は満33歳史実
- 1570年4月23日 元亀に改元史実
- 元亀元年4月25日 敦賀の手筒山城を攻め落とす。「頸数千参百七十討捕」史実
- 4月26日 金ヶ崎城の朝倉景恒が降参して退く史実
- 4月下旬 浅井離反の知らせが次々に届く。信長は最初「虚説」と思う。藤吉郎を金ヶ崎の城に残す史実
- 4月晦日(30日) 信長、朽木越えで京へ。朽木元綱が世話をする史実
- 5月4日(年は推定) 一色藤長の書状に「金ヶ崎城に木藤・明十・池筑その外残し置かれ」諸説あり
- 6月21日 虎御前山に登り、柴田・佐久間・木下藤吉郎・丹羽らに小谷城下を放火させる史実
- 6月22日 信長いったん退く。『信長公記』がこの場面で「殿」の語を使う(鉄砲500挺・弓30ほど)史実
- 6月24日 横山城を四方から囲む。家康も出陣史実
- 6月28日 姉川の戦い(卯の刻)。西=三田村口に家康、東=野村に信長の馬廻・美濃三人衆史実
- 戦いのあと 横山城が降参。藤吉郎、横山城の定番(守り)に史実
- 1571年(元亀2)5月6日 箕浦の合戦。藤吉郎が横山から百騎ほどで駆けつける史実
- 1572年(元亀3)11月3日 『信長公記』で「羽柴藤吉郎」が最初に出る史実
- 1573年(元亀4)7月20日 「羽柴藤吉郎秀吉」の署名がある最初の文書(大山崎惣中宛)通説
- 1573年7月28日 天正に改元史実
- 天正元年8月8日 浅井家臣・阿閉淡路守が織田方へ。信長、夜中に出陣史実
- 8月16日(推定) 「木下小一郎長秀」、黒田郷の惣百姓中に、村へ戻ることと兵の乱暴禁止を伝える。秀長は満32〜33歳通説
- 8月20日ごろ 朝倉義景、一乗谷を退き、一族の景鏡に腹を切らされる史実
- 8月27日夜 藤吉郎、京極丸に攻め上り、久政と長政の間を断つ。久政自害史実
- 8月28日 長政自害(『信長公記』『豊鑑』)諸説あり
- 9月1日 長政自害(8月29日付の感状による説。現在の通説とされる)諸説あり
- (日付不明) 長政の10歳の嫡男(万福丸)、関ヶ原で磔史実
- 天正元年 浅井の旧領(江北一職)を藤吉郎に朱印状で与える史実
- 1574年(天正2) 『信長公記』に「木下小一郎」初出(長島攻め)史実
- 1575年(天正3)11月11日 「羽柴小一郎長秀」の初見。弟も「羽柴」に通説
五この章の登場人物
-
豊臣秀吉とよとみ ひでよし
この章では「藤吉郎」。金ヶ崎に残され、横山城の守りを任され、小谷落城ののち浅井の旧領を与えられる。この章の途中から「羽柴」を名乗りはじめる。
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豊臣秀長とよとみ ひでなが
この章では「小一郎」。同じ時代の史料に姿は見えないが、1573年とされる黒田郷宛の文書に「木下小一郎長秀」の名がある。
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織田信長おだ のぶなが
浅井の離反を「虚説」と思い、事実と知って「是非に及ばず」と退いた。藤吉郎を金ヶ崎に残したのは信長。
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浅井長政あざい ながまさ
信長の妹・お市の夫。1570年に織田から離れ、1573年に小谷城で自害した。離反の理由には諸説ある。
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お市おいち
信長の妹。三人の娘(茶々・初・江)とともに城を出て織田方に引き取られたとされるが、経緯は確かな記録にない。
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明智光秀あけち みつひで
退却の数日後の手紙に「明十」として名が並ぶ。『信長公記』でも金ヶ崎の撤退のすぐあとに出てくる。
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池田勝正いけだ かつまさ
同じ手紙に「池筑」として名が並ぶ。3000の兵が殿の主力だった可能性を指摘する研究者もいる。
-
竹中半兵衛たけなか はんべえ
『豊鑑』では、姉川の先陣で藤吉郎に従った三人のひとり。
六参考文献
- 太田牛一『信長公記』巻三〜巻六同じ時代の記録 史料ガイド
「金ケ崎之城には木下藤吉郎残しをかせられ」「木下藤吉郎為定番横山に被入置」「羽柴筑前守京極つぶらへ取上」「江北浅井跡一職進退に羽柴筑前守秀吉御朱印を以て被下」 - 大久保忠教『三河物語』後の時代の本(徳川方) 史料ガイド
「鐘ヶ崎之、のきくち」「今日之合戦は、家康之御手がら故、天下之誉を取」 - 竹中重門『豊鑑』同じ時代を生きた人の記録 史料ガイド
姉川の先陣、「丹羽の羽に柴田の柴をそへ」、8月28日の長政自害 - 小瀬甫庵『太閤記』後の時代の本 史料ガイド
1570年代をほとんど書かず、金ヶ崎の項もない - 長浜城歴史博物館 企画展「秀吉と秀長、天下への道のり」公的機関
「木下長秀書状 黒田郷惣百姓中宛 (天正元年[1573])8月16日 長浜市指定文化財」「秀長の名前が資料上初めて登場する重要な史料です」 - 北近江豊臣博覧会「戦国を攻略せよ 豊臣秀長」(長浜市)公的機関
黒田郷宛文書の宛先と内容、姉川で「参戦していたかもしれない」 - 北近江豊臣博覧会「浅井長政」「浅井三姉妹」(長浜市)公的機関
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