第五章/1577〜1580年
播磨の泥沼
この章の問い ── 味方が次々と敵に回るなかで、兄弟はどう持ちこたえたのか?
本編(約12分)/ナレーションと台詞には合成音声、人物・背景の絵は画像生成 AI によるイメージです。
一3行のあらすじ
- 1579年、摂津・有岡の城から、一人の男が助け出されたと伝わります。秀吉の播磨攻めを支えてきた黒田官兵衛(このころは小寺官兵衛)です。
- 播磨へ出陣した秀吉のまわりでは、三木城の別所長治、摂津の荒木村重と、味方だった者が次々と信長から離れていきました。上月の城から手を引いた判断、官兵衛と人質の子・松寿丸をめぐる話、三木城の開城までを、記録に残ったことと後から語られたことに分けて見ていきます。
- 弟・小一郎(のちの秀長)が、兄から離れた但馬で城を預かった記録も紹介します。第二部「本能寺」の最初の章です。
二記録と語りの表
この章で出てくる話を、同じ時代に書かれた記録と、後の時代に語られた話に分けました。2026年10月25日時点で当チャンネルが調べたかぎりの整理です。
| 話 | 記録(同じ時代の史料) | 語り(後の時代の本) | わかっていないこと |
|---|---|---|---|
| 官兵衛が有岡城の土牢に囚われた 通説 俗説チェック |
『信長公記』に、官兵衛が囚われたという記事はありません(「官兵衞」の語は1577年11月の1回だけ)。同じ時代の手がかりは秀吉の書状で、1579年10月28日付に「くわんひやうきも我らしたいと御申候」とあります。 | 詳しく書くのは『黒田家譜』(1688年完成とされる)です。主君・小寺政職に頼まれて荒木村重を諫めに伊丹へ行き、捕らえられて「其儘城中に禁獄」された、家臣の栗山善助が獄の裏手の溜池を泳いで近づいた、出てきたときは「力よはり、足すくみて歩行かなはず」だった、有馬の湯で療養した ── と伝えます。 | 「土牢」という語は、当チャンネルが確かめたかぎり確認できませんでした。囚われた期間(約1年)も、出た日(1579年10月16日説/11月説)も、後の黒田家の記録によるものです。なお、このころの呼び名は『信長公記』『豊鑑』とも「小寺官兵衛」で、「黒田」の初見は1580年7月の秀吉の文書とされます。 |
| 半兵衛が人質の松寿丸をかくまった 諸説あり 俗説チェック |
同じ時代の記録には見当たりません。 | 出どころは『黒田家譜』だけです(当チャンネルが確かめたかぎり)。信長が竹中半兵衛に松寿丸の処分を命じ、半兵衛は諫めたが聞き入れられず、「殺候由」と信長に申し上げたうえで、美濃の自分の城にかくまった ── 翌年、官兵衛が助け出されると信長は後悔し、半兵衛がかくまっていたと聞いて喜んだ、と書きます。 | この話は、半兵衛の子である竹中重門の『豊鑑』には書かれていません。『信長公記』にもありません。秀吉が知っていたかどうかも書かれていません。「ねねが育てた」という話は確かめられませんでした。 |
| 官兵衛・半兵衛は秀吉の「軍師」だった 俗説・創作 俗説チェック |
『信長公記』は半兵衛を「羽柴筑前與力」(寄騎)と書きます。官兵衛も「小寺官兵衛」として、一人の武将として出てきます。 | 「軍師」「参謀」「両兵衛」といった呼び方は後の時代のものです。渡邊大門氏は『黒田官兵衛 ── 作られた軍師像』で、その像がどう作られたかを論じています。 | 当チャンネルは「秀吉の播磨攻めを支えた武将」という言い方にとどめます。 |
| 秀吉が上月城を見捨てた 史実 |
『信長公記』は、1578年6月16日に秀吉が京へ上って指示を仰ぎ、信長が「此陣引拂神吉志かたへ押寄攻破其上三木別所搆取詰」(この陣を引き払い、神吉・志方を攻め、そのうえで三木の別所を攻めよ)と命じた、と記します。秀吉の独断ではなく、信長の命令として書かれています。 | 7月5日に上月城は開かれ、尼子勝久は自害したとされます(佐用町の解説)。山中鹿介は捕らえられ、のちに備中で斬られました。 | 上月城の落城そのものについて、『信長公記』に記事は見当たりません。山中鹿介の「七難八苦」の逸話は、戦前の国定教科書で広まったもので、江戸時代の出どころは確認できていません。 |
| 「三木の干殺し」という言葉 史実 |
この言葉は、秀吉自身が書状に書いています。1579年の書状に「ほしころし」、1590年の朱印状に「三木の干殺」とあります。籠城中の飢えについて、『信長公記』は「牛馬を食し」と書き、大村由己『播州御征伐之事』は「餓死者數千人」「人之肉」とまで書きます。 | 包囲はおよそ1年10か月(1578年3月29日〜1580年1月17日)。城のまわりに数十の砦(付城)が築かれたとされます。 | 1578年7月に三木城のまわりに付城を築いたのは、秀吉の軍だけではありません。『信長公記』も三木市の年表も、信長方の大軍(織田信忠ら)の働きとして記します。付城の数にも諸説があります。 |
| 別所長治が離れた理由 諸説あり |
『信長公記』は1578年2月23日の条の続きに「別所小三郞存分を申立三木城へ楯籠也」と書くだけで、理由は記しません。 | 軍議での対立(『別所長治記』のいわゆる加古川評定)、名門としての意識、毛利や足利義昭との関係などが挙げられてきました。2024年2月に発表された「羽柴家文書写」からは、城割りをめぐる対立とする見方も出ています。 | 決め手になる同じ時代の記録は見つかっていません。 |
| 開城のとき、城兵の命は助けられた 諸説あり |
1580年1月15日、長治・友之・賀相の3人が、17日申の刻の切腹と引き換えに諸卒の助命を求める書状を出しました(大村由己が全文を写しています)。秀吉は感嘆して受け入れ、樽酒を送ったと記されます。17日、長治と友之が切腹しました。 | 由己は18日に城内の士卒が出て助けられたと書きます。一方、別の書状から、そうではなかったとみる研究もあります。 | 長治の辞世は『信長公記』と『播州御征伐之事』の両方に載りますが、文言が違います。年齢も数え26歳(『信長公記』)と数え23歳(由己)で分かれます。 |
| 有岡城落城のあとの処刑 史実 |
『信長公記』は、1579年12月13日、尼崎近くの七松で122人(重臣たちの妻ら)を磔にし、ほかに女388人・男124人、合わせて510余人を4軒の家に押し込めて焼き殺した、と人数つきで記します。 | ― | 場所を分けて読む必要があります。七松で処刑されたのは主に家臣の妻たちとその付き人で、荒木の一族(妻のだしら)は12月16日に京で引き回され、六条河原で斬られました。「荒木の一族が七松で」とまとめるのは誤りです。 |
| 兄から離れた弟 史実 |
1577年、兄が但馬へ攻め入り、竹田城に「木下小一郞 爲城代被入置」と『信長公記』は記します。1580年には「羽柴筑前守舍弟 木下小一郞に人數差加 但馬國へ亂入卽時無滯申付」とあり、弟が但馬へ攻め入りました。同年10月18日付で、弟自身が但馬の土地を家臣に与える文書も出しています。 | 三木の戦いにも弟の名が見えます(大村由己の本に「羽柴小一郞秀長」、感状の写しも)。1577年7月23日付とされる秀吉の官兵衛宛書状には「我らおとゝの小一郎めとうせんに心やすく存候」(私の弟の小一郎と同じように心やすく思っている)とあります。 | この書状の年は天正5年(1577)説と天正6年(1578)説があります。竹田城跡にいま残る石垣は、1585年以降の城主・赤松広秀が築いたもので、小一郎の時代のものではありません。 |
三この章の年表
月は旧暦。年齢は満年齢で書いています。
- 1577年(天正5)7月23日 秀吉、小寺官兵衛に書状「我らおとゝの小一郎めとうせんに心やすく存候」(年は天正6年説も)諸説あり
- 1577年10月23日 「羽柴筑前守秀吉 播州に至而出陣」。秀吉は満40歳史実
- 1577年10月28日〜 播磨国中を駆け回り「悉人質執固」。霜月10日ごろ「播磨表隙明」と報告史実
- 1577年(同じ項の続き) 但馬へ。山口・岩洲の城を落とし、竹田城に「木下小一郞 爲城代被入置」史実
- 1577年10月 松寿丸(8歳)、人質として信長のもとへ。秀吉に預けられる
- 1577年11月27日 福岡野(福原)城を攻める。「小寺官兵衞 竹中半兵衞」が宇喜多の後詰めを破る史実
- 1577年12月3日 上月城を落とす。残党を備前・美作の境で磔(『信長公記』)。秀吉自身も書状に「女子共二百餘人」を国境に並べ置いたと書く史実
- 1578年(天正6)2月23日の条 「別所小三郞存分を申立三木城へ楯籠也」。別所長治が離れる史実
- 1578年3月29日 三木城の包囲が始まる通説
- 1578年4月中旬 毛利・吉川・小早川・宇喜多が上月城を囲む。秀吉・荒木村重が高倉山に陣史実
- 1578年6月16日 秀吉が京で信長の指示を仰ぐ。信長は上月を引き払い、神吉・志方を攻め、三木を攻めよと命じる史実
- 1578年6月26日 高倉山の陣を引き払い書写山へ史実
- 1578年7月5日 上月城開城。尼子勝久ら切腹。山中鹿介は捕らえられ、のちに備中で斬られる通説
- 1578年7月15〜16日 神吉城落城(攻めたのは信忠・信孝らの大軍)。志方城降参史実
- 1578年7月 信長方の総軍(信忠ら)が三木城のまわりに付城を築く。秀吉の軍だけの働きではない史実
- 1578年10月21日の条 荒木村重が謀反を企てたとの報せ史実
- 1578年10月下旬 官兵衛、伊丹へ行き捕らえられる(『黒田家譜』)通説
- 1578年11月11日(年は推定) 秀吉→小寺休夢「官兵衛事、別而荒攝無等閑候」(官兵衛は荒木と親しい)。『黒田家譜』に書き写された形でのみ確認諸説あり
- 1579年(天正7)6月 竹中半兵衛、三木の陣中(平山)で病死。『信長公記』は6月22日の条、辞典は6月13日史実
- 1579年9月2日 荒木、伊丹を忍び出て尼崎へ史実
- 1579年9月4日 秀吉、宇喜多の赦免を独断で取り次ぎ「曲事」と叱られ播州へ追い返される史実
- 1579年9月10日 三木への兵糧入れの戦い。谷大膳討死。秀吉が切りかかり撃退史実
- 1579年10月15日 有岡城、総攻め。町を焼き、城を裸城に史実
- 1579年10月16日/11月 官兵衛、救出される(日は説が分かれる)通説
- 1579年10月28日 秀吉→小寺休夢。三木を「ほしころし」か、命を助けるか。官兵衛の件史実
- 1579年12月13日 尼崎近くの七松で122人(重臣たちの妻ら)を磔。ほかに510余人(家臣の妻子と付き人)を4軒の家で焼き殺す史実
- 1579年12月16日 京で荒木一族(妻のだしら)を引き回し、六条河原で斬る史実
- 1580年(天正8)1月15日 長治ら3人、切腹と引き換えに諸卒の助命を申し出る史実
- 1580年1月17日 長治・友之ら切腹、三木城開城。包囲はおよそ1年10か月史実
- 1580年1月30日 大村由己『播州御征伐之事』成る史実
- 1580年4月24日の条〜 「姫路に 羽柴筑前守秀吉可有在城相定普請申付」。小一郎に兵を加え但馬へ攻め入らせる史実
- 1580年10月18日 小一郎、但馬の土地を家臣に与える文書を出す(「於但州爲給地三百石遣」)史実
四この章の登場人物
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豊臣秀吉とよとみ ひでよし
この章では「羽柴筑前守」。播磨で、味方が次々に離れていくなかを戦う。「干殺し」という言葉を自分の書状に書いている。
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豊臣秀長とよとみ ひでなが
この章では「小一郎」。但馬・竹田城の城代を任され、1580年には自分で但馬へ攻め入る。兄から離れて動く姿が記録に残りはじめる。
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黒田官兵衛くろだ かんべえ
このころは主家の名字で「小寺官兵衛」。有岡城に囚われたと伝わる。「軍師」は後の時代の呼び方。
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竹中半兵衛たけなか はんべえ
『信長公記』は「羽柴筑前與力」と書く。1579年6月、三木の陣中で病死。松寿丸をかくまった話は『黒田家譜』だけに出てくる。
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松寿丸(黒田長政)しょうじゅまる
官兵衛の子。8歳で人質として信長のもとへ送られ、秀吉に預けられた。浅井長政と紛らわしいので、この章では「長政」とは呼ばない。
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別所長治べっしょ ながはる
三木城主。1578年に信長から離れ、1580年1月、自分たちの切腹と引き換えに城兵の助命を求めて開城した。
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荒木村重あらき むらしげ
摂津の武将。1578年10月に信長に背く。官兵衛はこの人を説得に行って囚われたと伝わる。
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大村由己おおむら ゆうこ
『播州御征伐之事』(1580年1月30日)を書いた。三木の籠城と開城を、秀吉の側から詳しく記す。
五参考文献
- 太田牛一『信長公記』巻十〜巻十三同じ時代の記録 史料ガイド
「悉人質執固」「竹田之城に 木下小一郞被入置候キ」「此陣引拂神吉志かたへ押寄」「牛馬を食し」、七松の処刑の人数 - 大村由己『播州御征伐之事』(1580年1月30日)同じ時代の記録
三木の籠城と開城。長治らの書状の全文、辞世、「餓死者數千人」 - 塙保己一編『群書類従 第拾參輯』(1900年)翻刻
国立国会図書館デジタルコレクション(保護期間満了)。『播州御征伐之事』を収める - 竹中重門『豊鑑』同じ時代を生きた人の記録 史料ガイド
半兵衛の子による記録。松寿丸をかくまった話は書かれていない - 貝原益軒『黒田家譜』(『益軒全集 巻之五』1911年所収)後の時代の本 史料ガイド
国立国会図書館デジタルコレクション(保護期間満了)。官兵衛の幽閉と救出、松寿丸と半兵衛の話の出どころ - 東京帝国大学文学部史料編纂所編『豊太閤真蹟集 解説』(1938年)翻刻
秀吉の小寺官兵衛宛書状「我らおとゝの小一郎めとうせんに心やすく存候」 - 福岡市博物館 リーフレット No.359「武人の書」公的機関
秀吉の官兵衛宛書状の現在の所蔵 - 三木市「三木合戦とは【豊臣兄弟と三木】」公的機関
包囲の期間、付城を築いたのが織田信忠であること - 佐用町「佐用の史跡文化財 上月城と上月合戦」公的機関
上月城の開城、尼子勝久の自害 - 『坂田郡志』上(滋賀県坂田郡、1913年)翻刻
1580年10月18日付の小一郎の宛行状「於但州爲給地三百石遣」 - 東京帝国大学文学部史料編纂所編『大日本古文書 浅野家文書』(1906年)翻刻
1590年の朱印状「三木の干殺」 - 渡邊大門『黒田官兵衛 ── 作られた軍師像』(講談社現代新書、2013年)研究者による書籍
「軍師」像がどう作られたか - 神戸新聞NEXT「別所長治、信長方から離反の理由は… 三木合戦の新史料発見」報道
2024年2月に発表された「羽柴家文書写」 - コトバンク「黒田孝高」「別所長治」「荒木村重」「竹田城」辞典