記録と語り 記録に残ったことと、後から語られた話を分けて見る

第六章/1581〜1582年6月初め

飢えと水の城攻め

この章の問い ── 秀吉はなぜ「戦わずに落とす」ことにこだわったのか?

本編(約12分)/ナレーションと台詞には合成音声、人物・背景の絵は画像生成 AI によるイメージです。

一3行のあらすじ

二記録と語りの表

この章で出てくる話を、同じ時代に書かれた記録と、後の時代に語られた話に分けました。2026年10月25日時点で当チャンネルが調べたかぎりの整理です。

話 記録(同じ時代の史料) 語り(後の時代の本) わかっていないこと
秀吉が、先に米を買い占めて飢えさせた
諸説あり
俗説チェック
同じ時代の記録には、この話が見当たりません。『信長公記』にも、籠城した側の『山縣長茂覚書』にも(当チャンネルが読んだ範囲では)ありません。 秀吉が商人に米を高く買い集めさせたと伝えるのは、江戸時代の軍記『陰徳太平記』とされます(原文は当チャンネルでは未確認)。 研究書のなかにはこの話を採るものもあります(柴裕之氏)。「無かった」と言い切れる段階ではありませんが、出どころが後の時代の本であることは押さえておきたい点です。
「渇え殺し」という言葉
史実
秀吉自身が書いています。1590年5月20日付の朱印状に「三木の干殺、鳥取のかつやかしころし…高松城を水責ニ」と、かつての自分の城攻めが並べられています。同じ手紙に「太刀も刀も不入」(太刀も刀も使わなかった)ともあります。 城の中の様子について、『信長公記』は数字を挙げずに、三木と同じ種類の描写を記します。開城後、食べ物を与えられた者の過半が急に亡くなった(「食にゑひ過半頓死候」)とも書きます。 この手紙の目的は家臣を叱ることで、戦いを誇るためのものではありません。当チャンネルは「誇らしげに」「自慢した」とは言いません。
秀吉の本陣(太閤ヶ平)
諸説あり
『信長公記』は包囲のしくみを詳しく書きます。本陣、堀と柵、二重三重の櫓、2里にわたる築地、町屋づくりの陣屋、夜のかがり火、海の警固船。兵数は「人數二萬余騎」。 鳥取城跡の北東に残る「太閤ヶ平」は、秀吉の本陣跡として知られています。 じつは信長を迎えるために築かれた可能性が高い、とみる研究があります(鳥取県立公文書館の県史だより)。信長は8月13日に後詰めの備えとして光秀らに出陣の用意を命じており、山陰への出馬を考えていたとみられます。
吉川経家の切腹
史実
『信長公記』に、城から「吉川式部少輔 森下道祐 日本介 三大將之頸を取可進之候間殘黨扶被出候樣に」── 三人の将の首と引き換えに残る者を助けてほしい ── と申し出があり、信長に伺って同意したとあります。1581年10月25日、経家は切腹しました(満33〜34歳)。 吉川家の家臣の覚書は、秀吉は経家が切腹しなくてよい、森下・中村だけでよいと言ったが、経家が聞き入れなかったと伝えます。経家が子に宛てた手紙の写しには「とつとりの事、よるひる二百日こらへ候」とあります。 経家が経言(のちの広家)に宛てた10月24日付の手紙には「日本二ッ之御弓矢於境、及悴腹候事、末代之可為名誉存候」とあります。自筆は『吉川家文書』に伝わるとされます。
水攻めは官兵衛の献策だった
俗説・創作
俗説チェック
『信長公記』にも『惟任退治記』にも、官兵衛の名はありません。『信長公記』は「くも津川ゑつた川兩河を關切湛水々攻」── 二つの川をせき止めて水をため、水攻めにした ── と書くだけです。 『太閤記』は、秀吉自身の判断として書きます。官兵衛の案だったと語られるようになるのは後の時代で、出どころは当チャンネルでは確認できていません。 高松城は三方を深い沼に守られ、一方は大堀という地形でした(『惟任退治記』)。その地形が先にあったことは、どの記録も書いています。
水攻めの堤の大きさ
諸説あり
俗説チェック
『信長公記』は川をせき止めたことを書きますが、堤の大きさには触れません。 三つの説があります。江戸時代の本は「三里」を12日前後で築いたとし、辞典は約3kmを11日とし、近年の研究には「大きな堤は要らなかった」という見方もあります。史跡「高松城跡附水攻築堤跡」として残る堤の跡は約2,600mです。 工事の始まりも、『太閤記』は4月13日、辞典・研究書は5月7・8日ごろと、月がずれます。答えはまだ出ていません。
毛利本隊との対陣
史実
『信長公記』に「毛利 吉川 小早川 人數引卒し對陣也」とあります。毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が城を救いに来ました。 兵数は記録によってまったく違います。秀吉の朱印状は「五万六万」、『惟任退治記』は「八万余騎」、辞典は「1万」。当チャンネルは数字を出しません。 2026年6月、毛利の側から水攻めの窮状を書いた吉川元春の書状(1582年6月2日付)が発表されました(岩国徴古館)。本能寺の変と同じ日に、「安否の一戦」と書かれています。
この二年の小一郎
諸説あり
『信長公記』巻十四・十五に、小一郎の名は出てきません(当チャンネルが確認した範囲で)。信長の家臣の記録には、この二年、弟の名がないことになります。 一方、籠城した側の家臣の覚書には出てきます。1581年7月5日、「羽柴小一郎殿爲大將」として秀吉の本隊より先に因幡へ入り、丸山の東の吹上浜へ上がった、と。城の中の経家も5月16日の手紙に「小一郎近日但州迄可罷下由申候」(小一郎が近く但馬まで来るらしい)と書いています。『惟任退治記』は兄弟を西国征伐の軍主として並べます。 翌1582年の高松の陣に、弟がいたかどうかは見つかっていません。覚書は約60年後に書かれたもの、経家の手紙はうわさを書いたものです。それぞれ重さが違うことに注意が要ります。

三この章の年表

月は旧暦。年齢は満年齢で書いています。

  1. 1580年(天正8) 鳥取城の山名豊国、秀吉に降る。のち家臣の森下・中村らが毛利方につくよう求め、豊国は応じず城を出る通説
  2. 1581年(天正9)2月14日 宇喜多直家の死通説
  3. 1581年3月18日 吉川経家、鳥取城に入る史実
  4. 1581年5月16日 経家の手紙「善乗坊、小一郎近日但州迄可罷下由申候」史実
  5. 1581年5月19日 経家の手紙:城の人数は「都合千余」、うち800ほどが具足をつけた兵史実
  6. 1581年6月25日 「羽柴筑前守秀吉 中國へ出勢打立人數二萬余騎」。秀吉は満44歳史実
  7. 1581年7月5日 「羽柴小一郎殿爲大將」、藤堂与右衛門以下を率いて丸山東の吹上浜へ(吉川家臣の覚書)通説
  8. 1581年7月12日 秀吉、鳥取城の北東の高山(本陣山・太閤ヶ平)に着陣。包囲の陣が組まれる史実
  9. 1581年8月13日 毛利の後詰めのうわさに、信長が長岡父子・惟任日向守(光秀)・池田らに出陣の用意を命じる史実
  10. 1581年10月25日 開城。三大将の首と引き換えに残りの者を助命。経家、寅の刻に切腹。救い出された者に食べ物を与えると過半が急死(『信長公記』)史実
  11. 1581年10月26〜28日 伯耆へ。吉川元春と馬ノ山で対陣史実
  12. 1581年11月8日 秀吉、姫路へ帰陣史実
  13. 1581年12月 信長、鳥取の働きを称えて感状と茶道具12種を与える史実
  14. 1582年(天正10)3月11日 武田勝頼父子の死史実
  15. 1582年3月17日 御次(秀勝)の具足初め。秀吉が供をし備前児島へ史実
  16. 1582年4〜5月 「すくも塚の城」を攻め落とし、「ゑつたか城」も降参。高松城を囲む史実
  17. 1582年4月13日〜/5月7・8日 堤を築く(『太閤記』は4月13日から、辞典・研究書は5月7・8日ごろ)諸説あり
  18. 1582年5月 毛利・吉川・小早川が人数を率いて対陣史実
  19. 1582年5月17日ごろ 信長、出馬を決め、光秀らに先陣を命じる。光秀、安土から坂本へ史実
  20. 1582年5月26〜28日 光秀、亀山へ。愛宕山で連歌史実
  21. 1582年6月2日 本能寺の変。同じ日、吉川元春が水攻めの窮状と「安否の一戦」を書く(2026年に発表)史実
  22. 1582年6月3日の晩・夜半 秀吉の陣に知らせが届く史実
  23. 1590年(天正18)5月20日 秀吉の朱印状「三木の干殺、鳥取のかつやかしころし…高松城を水責ニ」史実

四この章の登場人物

五参考文献