第六章/1581〜1582年6月初め
飢えと水の城攻め
この章の問い ── 秀吉はなぜ「戦わずに落とす」ことにこだわったのか?
本編(約12分)/ナレーションと台詞には合成音声、人物・背景の絵は画像生成 AI によるイメージです。
一3行のあらすじ
- 1581年、秀吉は因幡の鳥取の城を囲み、翌1582年には備中の高松の城を、堤と水で囲みました。
- のちに秀吉自身が手紙の中で並べた「三木・鳥取・高松」の城攻めのうち、鳥取と高松の二つを、『信長公記』、籠城した側の家臣の覚書、秀吉の側近・大村由己の本などの記録からたどります。米の買い占めの話の出どころや、水攻めの堤の大きさをめぐる3つの説も紹介します。
- 弟・小一郎(のちの秀長)の名が、どの記録に残り、どこで見当たらなくなるのかも確かめます。第二部「本能寺」の2本目です。
二記録と語りの表
この章で出てくる話を、同じ時代に書かれた記録と、後の時代に語られた話に分けました。2026年10月25日時点で当チャンネルが調べたかぎりの整理です。
| 話 | 記録(同じ時代の史料) | 語り(後の時代の本) | わかっていないこと |
|---|---|---|---|
| 秀吉が、先に米を買い占めて飢えさせた 諸説あり 俗説チェック |
同じ時代の記録には、この話が見当たりません。『信長公記』にも、籠城した側の『山縣長茂覚書』にも(当チャンネルが読んだ範囲では)ありません。 | 秀吉が商人に米を高く買い集めさせたと伝えるのは、江戸時代の軍記『陰徳太平記』とされます(原文は当チャンネルでは未確認)。 | 研究書のなかにはこの話を採るものもあります(柴裕之氏)。「無かった」と言い切れる段階ではありませんが、出どころが後の時代の本であることは押さえておきたい点です。 |
| 「渇え殺し」という言葉 史実 |
秀吉自身が書いています。1590年5月20日付の朱印状に「三木の干殺、鳥取のかつやかしころし…高松城を水責ニ」と、かつての自分の城攻めが並べられています。同じ手紙に「太刀も刀も不入」(太刀も刀も使わなかった)ともあります。 | 城の中の様子について、『信長公記』は数字を挙げずに、三木と同じ種類の描写を記します。開城後、食べ物を与えられた者の過半が急に亡くなった(「食にゑひ過半頓死候」)とも書きます。 | この手紙の目的は家臣を叱ることで、戦いを誇るためのものではありません。当チャンネルは「誇らしげに」「自慢した」とは言いません。 |
| 秀吉の本陣(太閤ヶ平) 諸説あり |
『信長公記』は包囲のしくみを詳しく書きます。本陣、堀と柵、二重三重の櫓、2里にわたる築地、町屋づくりの陣屋、夜のかがり火、海の警固船。兵数は「人數二萬余騎」。 | 鳥取城跡の北東に残る「太閤ヶ平」は、秀吉の本陣跡として知られています。 | じつは信長を迎えるために築かれた可能性が高い、とみる研究があります(鳥取県立公文書館の県史だより)。信長は8月13日に後詰めの備えとして光秀らに出陣の用意を命じており、山陰への出馬を考えていたとみられます。 |
| 吉川経家の切腹 史実 |
『信長公記』に、城から「吉川式部少輔 森下道祐 日本介 三大將之頸を取可進之候間殘黨扶被出候樣に」── 三人の将の首と引き換えに残る者を助けてほしい ── と申し出があり、信長に伺って同意したとあります。1581年10月25日、経家は切腹しました(満33〜34歳)。 | 吉川家の家臣の覚書は、秀吉は経家が切腹しなくてよい、森下・中村だけでよいと言ったが、経家が聞き入れなかったと伝えます。経家が子に宛てた手紙の写しには「とつとりの事、よるひる二百日こらへ候」とあります。 | 経家が経言(のちの広家)に宛てた10月24日付の手紙には「日本二ッ之御弓矢於境、及悴腹候事、末代之可為名誉存候」とあります。自筆は『吉川家文書』に伝わるとされます。 |
| 水攻めは官兵衛の献策だった 俗説・創作 俗説チェック |
『信長公記』にも『惟任退治記』にも、官兵衛の名はありません。『信長公記』は「くも津川ゑつた川兩河を關切湛水々攻」── 二つの川をせき止めて水をため、水攻めにした ── と書くだけです。 | 『太閤記』は、秀吉自身の判断として書きます。官兵衛の案だったと語られるようになるのは後の時代で、出どころは当チャンネルでは確認できていません。 | 高松城は三方を深い沼に守られ、一方は大堀という地形でした(『惟任退治記』)。その地形が先にあったことは、どの記録も書いています。 |
| 水攻めの堤の大きさ 諸説あり 俗説チェック |
『信長公記』は川をせき止めたことを書きますが、堤の大きさには触れません。 | 三つの説があります。江戸時代の本は「三里」を12日前後で築いたとし、辞典は約3kmを11日とし、近年の研究には「大きな堤は要らなかった」という見方もあります。史跡「高松城跡附水攻築堤跡」として残る堤の跡は約2,600mです。 | 工事の始まりも、『太閤記』は4月13日、辞典・研究書は5月7・8日ごろと、月がずれます。答えはまだ出ていません。 |
| 毛利本隊との対陣 史実 |
『信長公記』に「毛利 吉川 小早川 人數引卒し對陣也」とあります。毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が城を救いに来ました。 | 兵数は記録によってまったく違います。秀吉の朱印状は「五万六万」、『惟任退治記』は「八万余騎」、辞典は「1万」。当チャンネルは数字を出しません。 | 2026年6月、毛利の側から水攻めの窮状を書いた吉川元春の書状(1582年6月2日付)が発表されました(岩国徴古館)。本能寺の変と同じ日に、「安否の一戦」と書かれています。 |
| この二年の小一郎 諸説あり |
『信長公記』巻十四・十五に、小一郎の名は出てきません(当チャンネルが確認した範囲で)。信長の家臣の記録には、この二年、弟の名がないことになります。 | 一方、籠城した側の家臣の覚書には出てきます。1581年7月5日、「羽柴小一郎殿爲大將」として秀吉の本隊より先に因幡へ入り、丸山の東の吹上浜へ上がった、と。城の中の経家も5月16日の手紙に「小一郎近日但州迄可罷下由申候」(小一郎が近く但馬まで来るらしい)と書いています。『惟任退治記』は兄弟を西国征伐の軍主として並べます。 | 翌1582年の高松の陣に、弟がいたかどうかは見つかっていません。覚書は約60年後に書かれたもの、経家の手紙はうわさを書いたものです。それぞれ重さが違うことに注意が要ります。 |
三この章の年表
月は旧暦。年齢は満年齢で書いています。
- 1580年(天正8) 鳥取城の山名豊国、秀吉に降る。のち家臣の森下・中村らが毛利方につくよう求め、豊国は応じず城を出る通説
- 1581年(天正9)2月14日 宇喜多直家の死通説
- 1581年3月18日 吉川経家、鳥取城に入る史実
- 1581年5月16日 経家の手紙「善乗坊、小一郎近日但州迄可罷下由申候」史実
- 1581年5月19日 経家の手紙:城の人数は「都合千余」、うち800ほどが具足をつけた兵史実
- 1581年6月25日 「羽柴筑前守秀吉 中國へ出勢打立人數二萬余騎」。秀吉は満44歳史実
- 1581年7月5日 「羽柴小一郎殿爲大將」、藤堂与右衛門以下を率いて丸山東の吹上浜へ(吉川家臣の覚書)通説
- 1581年7月12日 秀吉、鳥取城の北東の高山(本陣山・太閤ヶ平)に着陣。包囲の陣が組まれる史実
- 1581年8月13日 毛利の後詰めのうわさに、信長が長岡父子・惟任日向守(光秀)・池田らに出陣の用意を命じる史実
- 1581年10月25日 開城。三大将の首と引き換えに残りの者を助命。経家、寅の刻に切腹。救い出された者に食べ物を与えると過半が急死(『信長公記』)史実
- 1581年10月26〜28日 伯耆へ。吉川元春と馬ノ山で対陣史実
- 1581年11月8日 秀吉、姫路へ帰陣史実
- 1581年12月 信長、鳥取の働きを称えて感状と茶道具12種を与える史実
- 1582年(天正10)3月11日 武田勝頼父子の死史実
- 1582年3月17日 御次(秀勝)の具足初め。秀吉が供をし備前児島へ史実
- 1582年4〜5月 「すくも塚の城」を攻め落とし、「ゑつたか城」も降参。高松城を囲む史実
- 1582年4月13日〜/5月7・8日 堤を築く(『太閤記』は4月13日から、辞典・研究書は5月7・8日ごろ)諸説あり
- 1582年5月 毛利・吉川・小早川が人数を率いて対陣史実
- 1582年5月17日ごろ 信長、出馬を決め、光秀らに先陣を命じる。光秀、安土から坂本へ史実
- 1582年5月26〜28日 光秀、亀山へ。愛宕山で連歌史実
- 1582年6月2日 本能寺の変。同じ日、吉川元春が水攻めの窮状と「安否の一戦」を書く(2026年に発表)史実
- 1582年6月3日の晩・夜半 秀吉の陣に知らせが届く史実
- 1590年(天正18)5月20日 秀吉の朱印状「三木の干殺、鳥取のかつやかしころし…高松城を水責ニ」史実
四この章の登場人物
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豊臣秀吉とよとみ ひでよし
この章では「羽柴筑前守」。鳥取と高松、二つの城を「戦わずに落とす」。のちに自分の手紙で、この二つを三木と並べて書いている。
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豊臣秀長とよとみ ひでなが
この章では「小一郎」。鳥取では籠城した側の覚書に名が出るが、『信長公記』には出てこない。高松の陣にいたかは見つかっていない。
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吉川経家きっかわ つねいえ
毛利方から鳥取城に入った武将。城の者たちと引き換えに切腹した。子に宛てた手紙の写しが残る。
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黒田官兵衛くろだ かんべえ
鳥取では、経家の命で夜討ちを受けた陣の主として名が出る。高松の水攻めを献策したという記録は、同じ時代にはない。
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山名豊国やまな とよくに
鳥取城主。いったん秀吉に降ったが、家臣が毛利方につくことを求め、応じずに城を出た。
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毛利輝元・吉川元春・小早川隆景もうり てるもと ほか
高松城を救いに来た毛利の三人。元春が水攻めの窮状を書いた書状が2026年に発表された。
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大村由己おおむら ゆうこ
『惟任退治記』で高松城の地形を記し、兄弟を西国征伐の軍主として並べて書く。
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明智光秀あけち みつひで
信長から高松への先陣を命じられ、安土から坂本、そして亀山へ向かった。
五参考文献
- 太田牛一『信長公記』巻十四・巻十五同じ時代の記録 史料ガイド
「人數二萬余騎」、包囲のしくみ、「食にゑひ過半頓死候」、「くも津川ゑつた川兩河を關切湛水々攻」 - 大村由己『惟任退治記』(1582年10月)同じ時代の記録 史料ガイド
高松城の地形、毛利の兵数「八万余騎」、兄弟を西国征伐の軍主として並べる - 東京帝国大学文学部史料編纂所編『大日本古文書 浅野家文書』(1906年)翻刻
国立国会図書館デジタルコレクション(保護期間満了)。1590年の朱印状「三木の干殺、鳥取のかつやかしころし…高松城を水責ニ」「太刀も刀も不入」 - 東京帝国大学文学部史料編纂所編『大日本古文書 吉川家文書別集』(1932年)翻刻
籠城した側の家臣の覚書(「羽柴小一郎殿爲大將」)、経家の手紙「とつとりの事、よるひる二百日こらへ候」 - 小瀬甫庵『太閤記』巻二・巻三後の時代の本 史料ガイド
水攻めを秀吉自身の判断として書く。堤の工事は4月13日から - 鳥取県立公文書館「県史だより 秀吉の鳥取城攻めと黒田官兵衛」公的機関
岡村吉彦氏による。鳥取城攻めの研究 - 鳥取県立公文書館「県史だより 織田信長の山陰出陣計画」公的機関
太閤ヶ平が信長の本陣用に築かれた可能性 - 岡山市「高松城跡 附 水攻築堤跡」(史跡)公的機関
昭和4年12月17日指定。堤の跡は約2,600m - 岡山市立中央図書館「岡山市立中央図書館資料による高松城水攻め」公的機関
- コトバンク「鳥取城」「吉川経家」「高松城」「高松城水攻め」「清水宗治」辞典
堤は約3km・11日で完成、4月27日に最初の攻撃、など